わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

こんな本読んだことありますか? 『街道をゆく 11 肥前の諸街道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)

2021年2月27日

 

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こんなに暖かく春めいた陽気になると、さすがにどこか旅に出たくなります。新型コロナ禍で旅が自由に出来ない今は、尚更その気持が大きくなります。さて、もしコロナが終わったら行ってみたいところはどこか・・・。行きたいところは山程ありますが、この司馬遼太郎著『肥前の諸街道』で書かれている地域もその一つです。

 

司馬さんはまず蒙古襲来の史跡を訪ねるために、「唐津街道」(国道202号線)を福岡から唐津まで行きます。その過程で、元寇の様子を説明しています。臨場感のある文章です。

 

「長い海岸線をもつ博多湾のなかでも、船舶の着岸地としては東の箱崎と西の今津が最適地だったから、上陸軍の集中がおびただしかった。もっとも、海岸線の中央あたりの赤坂麁原(そはら)、百道原(ももちばる)にも、かれらの一部が上陸した。

 1274(文永11)年の10月20日朝のことである。

 浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士の屠殺場のような惨況を呈した。元軍は城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう。(中略)

 武器は、中国をふくめたユーラシア大陸という広域規模の中から、よりどりで採用した強力かつ新奇なものをそろえていた。たとえば、鎌倉武士の頭上でさかんに炸裂した震天雷という投擲(とうてき)爆弾もそうであった。鋳鉄もしくは陶製の器の中に火薬を詰め、導火線に火をつけて敵にむかって投げつける兵器で、当時としては他に比類のない殺傷力をもっていた。(中略)

 軍隊の進退は、鉦(かね)や太鼓によっておこなうあたり、漢民族の様式であった。その騒がしさは天地も震うかのようであり、鎌倉武士たちの馬はこの音におどろき、武者たちは敵と戦うよりも自分の馬をしずめるのに大童(おおわらわ)になった。

 よく知られているように、鎌倉期の日本の戦法も、敗因のひとつだった。(中略)

 たとえば、いざ開戦というときに、矢合(やあわせ)の儀式をおこなう。飛ばせば空中で鳴る鏑矢(かぶらや)という殺傷力のない矢をまず射るのである。この博多湾の多々羅浜辺でも、これをやった。元軍はどっと笑ったという。その次の儀式は、両軍の各陣から力自慢の武者一騎ずつが出て勝負するのだが、日本軍がこれをやったために、その選りぬきの一騎武者たちは多数の元軍歩兵にかこまれ、殺されたり、捕らえられたりした。そのあとも華麗な甲冑武者が散発的に突出したが、ねずみの大群の上を蝶々が舞っているようなもので、戦争という形態さえ成立しなかった。」

幸いその夜、台風が襲来して、博多湾の蒙古船のほとんどは転覆し、蒙古の日本侵略は失敗するのですが(文永の役。その7年後の侵攻 —弘安の役— も台風で失敗)、日本にとっては異民族による最初の侵略戦争、しかも圧倒的に進んだ戦力との対峙となったわけです。元寇のことは大学で蒙古学を専攻した司馬さんは特に詳しいようで、そのあたりの歴史解説は素晴らしい。私は若い頃福岡市の博多湾沿いの地域に住んでいたので、元寇のことはもちろん知っており(中学、高校でも習いました)、防塁跡なども訪れていましたが、博多湾を埋め尽くす元の大船団までは当時イメージ出来ていませんでした。やはりそこまでイメージを膨らませないと、歴史は理解できないし、面白くないのだと思います。

 

司馬さんの本の面白さは、実際の現場の取材、深い歴史研究、そして頭の中で膨らむ想像力の豊かさによっているのが分かります。司馬さんは歴史家というよりやはり小説家です。話の展開がうまい。すべてが史実に正確にのっとっているかは別として、まるで歴史上の出来事や人物が目の前にあるような描き方は、さすがです。こんな具合で、この本では、唐津、平戸、長崎を旅します。スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスとの通商の歴史やキリスト教布教の歴史もこの本で見事に描かれています。私は、唐津と長崎には何度か行ったことがありますが、平戸はまだ一度も訪ねたことがなく、この町の歴史を学んだ後に是非ともスケッチに行ってみたいです。

 

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