わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

こんな本読んだことありますか? 「昭和史 戦後編」(半藤一利著、平凡社)

2016年9月10日
 
「昭和史」の続編です。これは私たち団塊の世代が経験した「昭和史」なので、リアルに思い出す部分が多くあります。敗戦と「一億総懺悔(そうざんげ)」の章から始まり、アメリカの占領政策平和憲法の制定、東京裁判朝鮮戦争、サンフランシスコ講和会議……..この辺りのことはまだ自分が生まれる前か生まれたばかりの頃のことなので、当然記憶にありません。



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私の子供の頃の記憶で一番古いのは、1949年、まだ1歳にもならない時、当時住んでいた鳥取県境港市の岸壁で、父の同僚の若い男性が私を抱いていて、ふざけて私を海に放り込む仕草をした時、私がびっくりして大泣きしたシーンです。海の色と岸壁の漁船をしっかりと憶えています。当時父が勤めていた水産会社の社宅は、水木しげるさんの実家の直ぐそばでした。ひょっとしたら、水木さんは生まれたばかりの私を目にしていたかもしれません。
 
それから、次に憶えているのは、1952年4月、私が3歳の時に、鳥取の大火があった時です。2万人余りが罹災し、5千戸の家が燃えました。私と両親は私が1歳の時に鳥取市に引っ越していて、そこで妹が生まれ、家族4人で市内の社宅に住んでいました。4月17日の午後に燃え始めた鳥取市の街の火災(国鉄蒸気機関車の火の粉が燃え移ったようです)はどんどん燃え広がり、市街だけでなく、鳥取城址がある山が燃え、空が真っ赤になり、私たちは大火を逃れてその日の夜、暗い田んぼの中を走って鳥取砂丘の近くの十六本松というところまで逃げました。父と母が私と妹を背負って逃げる足元のピチャピチャとはねる田んぼの水の音、そして夜空いっぱいにバレーボールぐらいの火の粉が飛んでくる光景が目に焼き付いています。その夜は十六本松の商店の人が親切にも私たちを泊めてくださいました。そしてその夜、私はよほど興奮したのか、おねしょをしてしまい、翌朝、商店の奥さんが、なにも言わないで笑いながらぬれた布団をそのまま松と松の枝に渡した洗濯ざおに干していました。干された布団の色は忘れましたがオシッコで丸く濡れた布団が忘れられません。
 
そしてその頃、アメリ進駐軍の兵隊さんがジープやサイドカーのついたオートバイで、大火で焼けた街をもうもうと砂埃をあげながら走る姿、それを呆然と見送る私たち子どもたちの姿も強く記憶に残っています。米軍のジープの塗装のなんとも言えない異国的な匂いと車体のカーキ色とが分かちがたく記憶に残っています。そしてやがて大火の復興工事が始まり、道路脇に積み上げられた土管や材木、土管の中に入って遊ぶ私たち子供。皆貧しく、食べ物も十分にありませんでしたが、しかし、戦争が終わった日本で何か大人たちの中に明るさがあるのを感じていました。
 
そしてやがて、幼稚園、小学校入学。コッペパンとマーガリンと脱脂粉乳の給食。冷えてちっとも美味しくない脱脂粉乳を目をつむって一気に飲んでいた3年間。ときどき弁当持参の日もあったのですが、おかずを炊いた汁がごはんの方にこぼれていっていて、醤油味の茶色くなったごはんを食べるなんとも哀しい「お弁当」の思い出。
 
はっきり覚えているのは、1957年、8歳の時にソ連人工衛星打ち上げ成功、1958年、東京タワー完成、1959年、10歳の時に皇太子ご成婚。この頃、島根県松江市に移っていた我が家にはまだテレビが無くて、よその家に行ってテレビに映るご成婚のパレードを見ました。この頃が、映画「三丁目の夕日」で描かれた日本のイメージとぴったり合う時代ですね。そして60年安保闘争東京オリンピックと新幹線開通、ベトナム戦争……….ああ、何だかとても懐かしいです。その懐かしい昭和の戦後史を、半藤さんはわかりやすく客観的に書いています。この本もあっという間に読めました。昭和史は戦前・戦中の部分は悲しく苦しいことばかりで、思い出したくない人も多いでしょうが、戦後の昭和史は、誰でも「私の昭和史」が書けるぐらい、いろいろな出来事があった70年ではなかったかと思います。自分の生きてきた昭和をもう一度思い返しながら、この本を読むといいと思います。