わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

こんな本読んだことありますか? 「植田正治 私の写真作法」(植田正治著、金子隆一編、TBSブリタニカ)、「僕のアルバム 写真:植田正治」(求龍堂)

2016年6月3日

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先日、鳥取県の大山のそばにある植田正治写真美術館に行きました。そこで上田さんの写真をまた久しぶりに見て、以前にこの美術館を訪れた時に買っていた2つの本を改めて読み直してみました。
 
植田正治 私の写真作法」の内容は、私の写真遍歴、アマチュア諸君へ、ちょっと素敵なもの、オリジナルプリントと印画紙、カメラとレンズ、愛すべき「ライカ」、という章の構成になっています。この本を読むと、デジタルカメラが出現するずっとずっと前の戦前からの写真家の仕事ぶりが大変よくわかります。カメラやレンズへのこだわりは現代でも多くの写真家が経験していることでしょう。この本を読みながら、私たち絵描きの場合は、カメラもプリントも何も考えなくて良くて、ただ自分の目と感性で描くだけだから、その点は楽かもしれないと思いました。
 
本のなかでは、植田正治のアマチュアへのこだわりが繰り返し書かれています。若いころに一時上京して写真の勉強はしているものの、その生涯の殆どを地元山陰で写真を撮って過ごした植田さんは、自分が生まれて育った山陰地方へのこだわりや中央への対抗心もあったと思います。上田さんにとっては、「アマチュア」というのは誰かのために写真を撮るのではなく、自分自身のために撮るという態度を表す言葉としてあったようです。これは私のような駆け出しのアマチュア絵描きでもよく分かります。

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植田正治さんは鳥取県境港の出身で、旧制米子中学(現在の米子東高校で、私の出身校です)を出てから東京の写真学校へ。それから太平洋戦争を経て、戦後は境港と米子を結ぶ弓浜半島の砂浜や、鳥取県東部の鳥取砂丘を背景に多くの家族写真や人物写真を撮りました。境港といえば、あのゲゲゲの鬼太郎水木しげるさんもその当時は境港で生活していたはずです。時代的には重複しています。体が弱く兵隊検査が不合格て、写真屋を営みながらひっそりと故郷で暮らした植田さん。一方、南方に派遣され片腕を無くし、生死の境をさまよって帰ってきた水木さん。写真屋と紙芝居の絵描き作家。境港は小さな町なので、お互いに認識はしていたでしょう。実は私の亡くなった父も戦後すぐに境港の水産会社に就職し、若いころ水木さんの実家のそばで暮らしていました。水木さんの姿も目にしたそうです。その父も写真が大好きで、結婚後、父が鳥取市への転勤した後は、私や生まれたばかりの妹をつれて、よく鳥取砂丘に写真を撮りに行きました。それで我が家には、私たち兄妹や近所の子供達が被写体の白黒写真が山のようにありました。戦後で生活が厳しいのに次々とカメラを買い、自宅に現像用の装置を買い込み、当時、母が家計のやりくりに大変苦労していたのを思い出します。父はアサヒカメラなどの写真雑誌にも作品を送り、何度か入選していました。多分その頃は、この植田正治さんの影響を大いにうけていたのだと、今になって分かります。そんなわけで、私は植田正治さんにも水木しげるさんにも人並み以上に親近感を感じます。
 
「僕のアルバム 写真:植田正治」では、若いころの植田正治の奥さんや子どもたちが被写体の写真が多く収められています。奥さんの紀枝(のりえ)さんは、大山の近くの法勝寺町出身。松江の女学校を卒業後、19歳で22歳の植田正治とお見合い結婚。その結婚当時の初々しい姿が写真に残っています。「アマチュア精神」を貫いた植田正治を48年間支えて、植田正治より先に亡くなりました。植田正治砂丘での「演出写真」でもモデルをつとめ、植田の写真に大きく貢献しています。


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「僕のアルバム 写真:植田正治」の中の写真から
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