わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

ローカルFM放送出演 7月

2015年7月1日

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エフエムくらしきへの出演は毎月第二木曜日の午後なのですが、7月は第二木曜日にどうしても時間がとれないので、今日の午後4時からその部分を録音することになりました。今日の話題は「松江」です。松江は私の故郷なので、特にメモ書きなどが無くても何でも話せました。4月から始まった月一回の番組も、今回4回目となり、だいぶ慣れました。私の声は相変わらず聞き取りにくい弱い声なのですが、これが地声なのでどうにも直りません。最近は「もうこれでいくしかない」と開き直ってきました。

 

今日は司会の小野須磨子さんが私が5月に新聞に投稿した松江に関する記事を引用してくださり、それをもとに話が進みました。国宝になることが決まった松江城宍道湖の夕焼けの美しさ、宍道湖名物しじみの美味しい味、宍道湖の東側に位置する中海に浮かぶ大根島出身の喜劇俳優白木みのるさんの話、など話題は盛りだくさん。そして最後の締めは、何と言っても郷土のヒーロー、テニスの錦織圭選手の話でした。今日は故郷自慢がたくさんできてよかったです。


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今日は最後に、先月地元山陽新聞朝日新聞に投稿した文章をそのまま載せます。実際の各新聞誌上ではこれらの文章は少しずつ手直しされて掲載されました。

 
 

「“花いっぱい”で昔を思い出す」 (山陽新聞朝刊 2015年5月23日 土曜日)

 

先日ラジオ放送を聞いていたら「倉敷市の花いっぱいコンクール」の案内をしていました。「花いっぱい」と聞いて、昔の出来事を懐かしく思い出しました。昭和33年、私は島根県松江市の小学4年生でした。その頃は、戦後10年以上経って、学校給食もコッペパンとマーガリンとアメリカの「ララ物資」による脱脂粉乳だけの食事からようやく脱して、毎日の給食メニューにも少しずつ変化が見え始めていました。それでも、ずっと後の時代の子供たちが経験する「楽しい給食」とは比べ物にならない貧しい食事内容でした。その年の5月のある日、初夏の日差しが眩しい朝に校内放送がありました。「今日は花いっぱい運動の行事があります。生徒の皆さんは全員、校庭に集まって下さい」。私達はこの放送を聞いてざわめきました。スピーカーの音が悪くて「花いっぱい」が「腹一杯」に聞こえたからです。「わあー、今日は何だか美味しい物が腹一杯食べられそう!」。皆うれしくて校庭に飛び出しましたが、そこで生徒全員に配られたのは美味しい食べ物ではなく、花の種が入った小さな紙袋が結ばれた風船でした。その日は全員で青空に風船をあげました。昭和30年代の日本中誰もがまだ貧しかった頃の思い出です。

 
 

「国宝・松江城 思い出と喜び」(朝日新聞朝刊 2015年5月24日 日曜日)

 

松江城天守閣が新たに国宝に指定されることになりました。これは、地元の関係者の長年の努力や松江市民の期待に応える素晴らしい知らせです。私は昭和32年に父の転勤で松江市内に住むことになり、小学3年の2学期から卒業までの3年半を松江城のすぐ近くの小学校で過ごしました。今回の朗報で、その頃の松江城の姿が沢山の級友達の思い出とともに頭に浮かんで来ました。小学校では度々松江城を訪れ、築城を行った堀尾吉晴公や、江戸時代の藩主で茶人として有名であった松平治郷(はるさと)公(別名不昧公(ふまいこう))のことを習いました。昔のままの木製の急階段をフウフウ息をつきながら登りつめて、やっと天守閣の最上階にまで来ると、宍道湖宍道湖に浮かぶ嫁ケ島などが眼下に広がり、水の都松江を実感できるすばらしい眺めが見えました。松江城の周りにはお堀にそって武家屋敷が昔の姿のままに残り、ギリシャ生まれでイギリス国籍の作家ラフカディオ・ハーン小泉八雲)がその昔こよなく愛した古い日本の城下町の姿がそのまま残されています。私は退職後日本各地を水彩スケッチをしながら歩いていますが、松江城のあるこの松江は、是非このままの姿で未来へ残したい町の一つです。