わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

懐かしい あの3中は ここなんだ (鳥取県米子市 加茂川水彩スケッチ)

2015年6月

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早朝、米子のホテルを出て、市内の加茂川沿いを歩きました。私は昭和30年代後半と40年代前半を米子市で過ごし、この町の中学と高校に通いました。小さな町なので町全体を知り尽くしているだろうと思わるかもしれませんが、実は自宅のあった米子港の周辺と中学や高校への通学路以外は殆ど知りません。結構、当時も市域は広かったのです。
 
小学校は島根県松江市にある島根大学附属小学校を卒業しました。松江市ではトップのエリート校で各学年たった2クラス。きれいな上品な制服で、悪く言えば「お坊ちゃん・お嬢ちゃん」学校でした。松江は山陰地方では一番大きな「都会」で、その「都会」の真ん中に位置する松江城(最近国宝に指定されました)のすぐ近くに小学校があり、いわば地方文化の中心のような所でした。そこで裕福な家庭の子供達に囲まれて小学校生活を送っていたのに、そこから急に父の転勤でお隣の鳥取県米子市に移り、米子市立第4中学校(米子4中)に入学することになりました。この米子4中は米子港やその周辺の漁業関係者、中小の食品会社、さらにそこから弓ヶ浜半島に向けて広がる農家の子弟が主に通う中学でした。中学校の周囲の畑は砂丘のようなサラサラの砂地で、道路も殆ど未舗装で土の道に砂まじり。新しく舗装された道路にも端の方にサラサラの白い砂が積もっていました。団塊の世代なので、1学年のクラスも多く、1クラス55人で12クラスもありました!! 中学になって突然米子市の郊外の、田舎っぽい米子4中に入学したのは、正直言ってショックでした。本当のカルチャーショックというのはこういうことを言うのかもしれません。

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この中学に入って、初めにどうしても気に入らなかったのは制帽の4本の白いラインでした。米子には1中、2中、3中、4中とあり、それぞれ黒い学生帽にぐるりと白いラインをまいたのを被る決まりでしたが、まあラインが1本や2本なら美的感覚からしても許されるのですが、3本だと「ちょっとなあ」という感じ。4本だと「わあ、やぼ天!たまらん!」と言う感じでした。そして実際、米子1中は米子で最も大きな企業である日本パルプ(現王子製紙)米子工場のリッチな家庭の子弟が通う学校、米子二中は市役所などの地方行政施設、鳥取大学医学部や関連病院のある地域のインテリの家庭の子供が多くいる学校、米子3中は米子駅の近くの当時は大きかった商店街やその周辺の商業地域の経済的に恵まれた家庭の子弟の通う学校、そして米子4中は農業・漁業関係者の多い「ど田舎」の学校のイメージでした。
 
実際、米子4中は生徒が「野性的」で、いわゆる「不良」も多く、荒れた学校としてこの町では「名前」が通っていました。私は恐る恐るこの中学に入学したのですが、入学してみると予想に反して周囲はやさしい気のいい友だちばかり。皆、嫌いな勉強のことはきれいさっぱり忘れて、放課後は毎日のように校舎の周囲の砂山(校舎は砂山と松林に囲まれて建っていました)でボール遊びや相撲をして遊びました。砂鉄を含むサラサラの砂のお陰で転んでも全く怪我をしませんでした。その代わり学校が終わって家に帰ると、ズボンの裾やポケット、シャツのポケットが砂だらけなので、よく母親から叱られました。上級生の不良にゆすられたり、たかられたりと、結構怖い経験もしましたが、思い返すと、私の長い人生の中で、何のストレスも感じること無く思い切り毎日を楽しんだ、一番幸せな時期だったと思います。
 
どんな町でもよくあるように、この米子1中、2中、3中、4中はお互いに仲が悪く、特に2中と4中は学区が隣接しているせいでよく生徒同士の喧嘩騒ぎがありました。市内の県立湊山球場で行われる中学校対抗の野球大会では全校で応援に行くのですが、お互いのヤジ合戦で大騒ぎでした。

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中学校時代、こんなに意識していた1中、2中、3中なのに、実際に自分の目でその校舎を見たことはこれまでありませんでした。今回加茂川の川沿いをスケッチしていると「おはようございます」ときちんと挨拶してくれる行儀の良い中学生が何人も通りかかるので、スケッチを終えて少し歩いてみると、あの旧米子3中の校舎がありました。「なあんだ、3中はここにあったのか」と全く見たことなかったのに、何か懐かしい感じです。加茂川沿いの古いきれいな家並みに囲まれた上品ないい感じの中学校です。「これだと4中との文化的落差は大きいなあ」と妙に納得しました。今更なのですが、「3中、悔しいけど羨ましい!」。
 

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