わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

楽しくて やがて哀しき 夕べかな (鳥取県米子市 米子東高校水彩スケッチ)

201411

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私の母校、鳥取県立米子東高校の同窓会(同期生会)に出席するため、米子市に来ました。
母校の管理棟と教室等がまもなく耐震改修工事に入り、今の姿が消えてしまうということを耳にしたので、今回、同窓会の前日に米子に来て、思い出の母校を水彩スケッチすることにしました。朝10時過ぎに米子駅着。それから駅のレンタサイクルで自転車を借り、米子東高校へ向かいました。駅前から懐かしいアーケードの商店街に入ると、今はアーケードが取り払われて、人通りの無いひっそりとした通りに変わっていました。昔はあんなに賑やかだったのに、今はシャッターを閉じた店が続き、取り壊されて更地になったところも目に着きます。その商店街を抜け、JR境線を横切って高校に近づくと昔と変わらない家並みが現れます。今から50年前、胸ふくらませてあこがれの高校に入学して自転車で高校に向かったあの道は今も基本的に変わってはいません。通りから見ると正面の坂道の向こうに高校の正門と校舎が見えます。坂道の両側には松並木があります。構内に入ると静かでした。土曜日なのでサークル練習で来ている生徒の姿がちらほらと見えるだけでした。
 
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校舎全体をよく眺められる場所を探して、正面のグラウンドに降りて、そこから見上げるかたちで校舎の全景を描くことにしました。私が生徒の頃は、こんな広いグラウンドは確かここにはありませんでした。グラウンドでは、何か球技の練習をしている生徒が数人いて、イーゼルを立ててスケッチブックを広げる私を、不思議そうな目で時々眺めていましたが、特に絵を見に来たり話しかけたりしてくる生徒はいませんでした。私としては、是非話しかけて来て欲しかったのですが、あの年代の生徒さんは遠慮がちで、知らない人との会話はなかなかしませんよね。
 
午前11時からスケッチを始めて、お昼ごはんも食べずに午後2時まで3時間、スケッチしました。日差しが暖かく、気持ちのよいスケッチでした。校舎のまわりの木々の紅葉が綺麗でした。高校卒業以来、3時間もじっくり校舎を眺めたのはもちろんこれが初めてです。本当に50年前に戻った感じで、懐かしさがこみ上げてきました。この高校、私にとっては重苦しい受験勉強の思い出しかなくて、ストレスが多くて余り幸せな場所ではなかったのですが、3年間に出会った先生方や同級生には非常に大きな影響を受けました。米子東高校は、米子という地方都市の中で当時私達にとっては唯一知的な刺激を受けられる場所でした(今でもそうかしれません)。そこで、生徒はいわゆる受験勉強を通してそれぞれに「選別」されて、将来日本中に散らばって行きます。高校はそのための「人生の発射台」のような場所だったと思います。その「選別」がいいか悪いかは別として、これは多くの人がだれでも青春時代に通り抜けていく道です。


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そんなことをあれこれと考えながらスケッチをして、スケッチが終わったあとは、また自転車で懐かしい通学路をたどって街へ戻って見ました。50年の時間の流れは、ある意味で残酷ですね。街は郊外に向けて大きく発展し道路網も整備され、交通量も増えていますが、街の中心部分は空洞化しているように見えます。50年前の街のにぎわいが懐かしいです。



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翌日の同窓会は12年ぶりの開催でした。前回の同窓会は、53歳の時、そして今回は全員65歳です。ずばり「シニアクラス進級祝い」とタイトルをつけられた同窓会でした。私達は団塊の世代で、1学年が11クラスもあり、全員で550人でした。予定通り午後1時半過ぎに会場のホテルに行ってみると、もう会場には多くの同級生が来ていました。本日の参加者117名。予め決められた3年生の時のクラス別の席に着席したのですが、同級生の顔が全然判別できません。他のクラスの席を見渡しても、全く「知らない」人ばかり。WAKARANAAAI!!! のです。50年の歳月は残酷ですね! 机の上の名簿を見て、お互いに名札を見せ合って、「ああ、君かあ」とう感じです。私も随分変わってしまっていたらしく、「なんか昔の面影はあるけどなあ」と言ってくれる人ばかり。前回の53歳の時には、お互いにかろうじて判別がついたのに、それから後の12年が全ての人に容赦なく「老い」を加えたようです。


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会の幕開けには、米子東高校吹奏楽部の生徒さんによる校歌の吹奏とそれにつづく華麗な演奏がありました。若い生徒さん達の演奏の迫力に感動しました。みんなこれからも頑張れ!有難う!!
 
そして、最初に同窓生の物故者への1分間の黙祷。「亡くなった人が何人おられると思いますか?」の司会者の問いかけに、会場から「1割?!」の声が上がりました。「いえ、何と一割を超えています」と司会者。みんな驚きのどよめき。無くなった同級生の名前が前のスクリーンにでてきました。みんな久しぶりに出会った興奮でわいわいがやがやしていたのに、この時には食い入るようにスクリーンに写しだされた亡くなった友達の名前を見つめました。
 
この時、私には何とも言えない驚きと悲しみが襲ってきました。今回の同窓会で多分50%ぐらいの確率で会えるかな、とひそかに期待していた一番の親友のY君の名前がそこにあったからです。Y君とは米子東高校に入学したその日から教室で話始めました。入学初日は名前の「あいうえお」順で席についたので、いきなり話す機会があったのです。私は米子四中、Y君は米子二中の出身。もう一人仲の良かったYS君は米子三中の出身。当時の米子市内では、米子の唯一の大企業、日本パルプ(王子製紙)の社員の子弟が多いリッチな一中校区、鳥取大学医学部の先生や市の公務員の子弟の多いインテリな二中校区、駅やその周辺の商店主などの子弟が多く経済的に恵まれた三中校区、それに米子港とその周辺の漁業関係企業や農家の子弟が多くどちらかといういと田舎っぽさ丸出しの四中校区があり、特に私がいた四中は荒れた中学として有名でした(しかし、この四中で私は自分の人生で最も幸せな時期のひとつを過ごしました)。地理的に隣接しているせいで、二中と四中の生徒はよく喧嘩や揉め事を起こしていました。そんな中で、高校に入って全てをチャラにして出直す新鮮さ。私達3人は初めから妙に気が合って、いつもクラスで一緒にいました。担任は生物のI先生でした。私はこの先生の影響で、大学では理学部生物学科を選ぶことになりました。YS君は2年からは文系クラスに移り、最後まで成績を伸ばして京大に合格しました。Y君は私と同じ理系のクラスだったのと、学力が似ていたので高校3年間最後まで付き合って、いわば「受験の苦楽」を共にしました。彼の趣味はクラシック音楽。「世の中ベートーベンが好きな奴が多いんだけとさあ、やっぱりモーツァルトなんだよね。これ聞いたらわかるんだけどさあ、ほんとすごいんだよ。これ聞くしかないよ」。高校1年でいきなり出会った東京弁の「シティーボーイ」風のY君に生まれて初めて市内のレコード屋(兼喫茶店)に連れていかれてびっくりしました。彼の通学自転車はおしゃれなドロップハンドル。こんなおしゃれな自転車は多分学年で彼だけだったでしょうね。米子の人なのになぜ東京弁かというと、お父さんが鳥取大学医学部の先生で慶応医学部出身。お母さんも東京の人。お兄さんは慶応工学部に進学と、まあ家庭がそんな感じで、子供の頃から東京弁を話す雰囲気だったわけですね。私もY君も中学・高校と比較的スポーツ音痴だったので、それを克服すべく、休日は必ず医学部のグラウンドでキャッチボールに汗を流し、近くの通りをランニングしました。これが受験勉強の大事な息抜きでした。そして汗をかいた後で近所の小さな店に入って飲む瓶入りのコカコーラの味。忘れられません。こうやって二人共何とかかんとか大学に合格。大学入学後も春休みや夏休みには必ず米子で会いました。Y君の行っている北大の話や、札幌の冬が寒くて、夜、銭湯に行ってから下宿に帰ってくると首に巻いたタオルがカチカチに凍っていて首からはずれない話など、忘れられませんね。「また会おう!」と元気で別れて、それ以来お互いに忙しくなって一度も会うことなく、あれからもう40年以上。もう一度君には絶対会いたかったなあ。また会って、モーツアルトの話を今度はじっくり聞かせて欲しかった。今なら僕でも少しは音楽の話ができたのに。
 
自己紹介をしたり、なつかしいフォークソングをギター演奏で歌ったりしながら、談笑するうちに、予定の4時間が過ぎました。最後に全員で肩を組んで思い切り大きな声で校歌と応援歌を歌いました。
錦の海のひんがしに 松翠なるわが校舎 世の灯の使命享け 群咲き匂ふこの団欒 自由をかざす若人の 清らの生命讃ふなり ああ青史に映ゆるわが母校」。
やはり校歌はいいです。感動して涙がでました。それにみんな校歌を歌うときは声が若い!
 
今回、もう一人思い出深い友達の死を知りました。中学から同じだったS君です。田舎びていて、ヤンチャで、勉強が苦手で、気のイイ生徒の多かった四中で、目立った秀才だったS君。中学・高校と一度もクラスが一緒にならず、顔を見るだけで話したことはなかったけれど、友達の間でその秀才ぶりは評判でした。確かに勉強のよくできる人で、京大理学部物理学科に現役で入りました。我が四中にはもう一人秀才のほまれ高いO君がいて、彼は四中を出て灘高に行き、東大に入りました。こんなインテリジェンスが感じられない?ど田舎の中学からでもこんな人材が出ることが、同窓生としては誇りでした。私も中学ではそこそこ良い成績の生徒でしたが、学年の模擬試験などで結局3年間S君とO君に追いつくことは一度もありませんでした。そういう意味で、何かいつも四中・米子東高校で輝く星のような存在だったS君。ご冥福をお祈りします。
 
同窓会が終わって、会場を出て自分のホテルまで30分夜道を歩きました。道は途中から昔通学していた道に合流しました。楽しかった同窓会。そしてまた同時にじわじわと哀しさと寂しさのこみ上げる同窓会でした。