わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

こんな本読んだことありますか? 『セザンヌ』(アサヒグラフ別冊美術特集、朝日新聞社)

2022年9月5日

 

 

芸術の秋が近づきました。絵を描かなくても、なんとなく画集を開くだけでも楽しいものです。今日はセザンヌの画集を開きました。このアサヒグラフ別冊は1988年刊。もう今から25年も前の本で当時の定価が1,500円。100ページほどの大型版です。今見てもすばらしいと思うのは絵の写真の美しさ。手軽な感じの冊子体なのに、写真は豪華です。

 

私の敬愛する故赤瀬川原平さんが書いた『赤瀬川原平の名画読本』(光文社KAPPA BOOKS)の中のセザンヌについての文章を引用します。

 

「学生のころ、やはりセザンヌが好きになっていた。やはりというのは、ほとんどの人が一度はセザンヌが好きになるからである。

 でも好きになりながら、セザンヌはちょっと変な画家だと思った。変な、というのは、何かわからないところがあるからである。セザンヌの絵は好きなんだけど、ちょっとわからないところがあって、でもセザンヌはぜんぜんそこのところを説明してくれない。好きなら好きでいいい、嫌いでもいい、そんなことわしゃ関係ない、という感じで、セザンヌは黙ってサクサクサクサクと筆先を進めているようなのだ。その動揺しない精神というのが凄いと思う。(中略)

 ゴッホゴーギャンも変な画家である。美術史の中で、何か大したことをしたのはみんな変な画家だ。というので自分もすぐ変になりたいという画家が、とくに最近の世の中にはいるものだが、それは違う。変な人は、見かけだけならいくらでもいる。でも大した人というのはそういない。逆算は必ずしも可能ではない。

 それはともかく、ゴッホゴーギャンの変というのはわかるのである。わかるというか納得がいく。凄い凄いと思いながら、ある程度の説明ができる。起承転結をあらわすことができる。でもセザンヌの変は、それができない。いったいこの人は何を考えていたのかと、本当に変に思う。

 絵を見てそう思うのである。伝記類をちゃんと読んだことはない。頑固親父だったという説明をときどき見るが、それはたんに人柄の問題である。それよりも絵だ。風景画のタッチはサクサクサクと、年季のいった大工職人がノミで削るように確信をもって筆を進めていながら、その確信というものが何なのか、ぜんぜんわからないのだ。」

 

私もセザンヌの絵は好きです。ひと目でセザンヌと分かる色とタッチ。とても上手いか、と問われると返事にちゅうちょする絵です。途中で塗り止めたような感じの絵も多く、荒っぽい描写もあります、しかし全体の独特の雰囲気は真似できません。この人にしかない雰囲気です。

 

2014年の夏にスケッチツアーで南フランスに行きました。その時にセザンヌのアトリエを訪ね、セザンヌが好んで描いたサント・ヴィクトワールを短時間スケッチする機会がありました。私にとってはセザンヌを身近に感じる至福の時間でした。

 

(2014年のスケッチ)