わたしの水彩スケッチと読書の旅

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こんな本読んだことありますか? 「ルソーの夢」 (赤瀬川原平の名画探検シリーズ)(赤瀬川原平著、講談社)

2018年8月2日


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画家の画集を見て、その画家や描いた絵が好きになるというのはよくある普通のパターンです。一方、絵の解説書を見て絵が好きになるというのは、あまり無いパターンかもしれません。私の場合、赤瀬川原平さん(1937-2014)の解説を読んでますます画家が好きになった例がいくつかあります。シスレーしかり。そしてこのルソーも。赤瀬川さんの文章を読むと、絵の解釈・評論をするというのはこういうことかと感心し、また刺激も受けます。赤瀬川さんの場合、画家や絵をほめるだけでなく、けなすこともある。有名画家を「下手くそだ」と堂々とけなす。そこがすごい。自分自身が画家で、また作家で、沢山の絵を自分の目で見てきた「経験力」で、自分の解釈を自分の文章で堂々と展開する。そこが気持ちいいのです。

 

まずこの本の「はじめに―“しょうがない”ルソーの魅力」を一部引用します(長い文章なので、途中をたびたび省略しています)。

 

 『ルソーはふつう一般に、素朴派の画家といわれている。素朴派という言葉には、絵が下手だけど妙に味があって、しょうがないんだというニュアンスがある。

 ルソーの絵を見ていると、あ、ばかだなあと思いながら、その一方でうらやましくなる。そんなに堂々と勝手ができて、うらやましい、という感じである。

 それと同時に、真面目だなあと思う。この人は釣り銭をきっちり、消費税の一円まで間違えてない人だなあと思う。そのくせ1万円札を1枚余分に渡してしまうんじゃないか。

 ルソーの絵は肉体的だ。身体的というか、自分の体をキャンセルしないで、その体なりに絵を描いていく。普通は自分の体が不便だからと、途中でキャンセルして新しい規格の体に替えたり、全部はムリにしても、部分部分新しいのに取り替えていったりして、案外と自分のもとの体を使い捨てていくものである。

 でもルソーはそれをしない。自分の持っている体をそのまま使って、新しいのに替えたりせずに、自分の腕が曲がっていたら曲がったなりに、関節が錆びていたら、そこに油を垂らして磨いて、全部捨てずにそれを生かして、うまく使いこなして絵を描いていく。

 ぼくは、ルソーの絵を見て、ふふふ、と笑う分だけ、ぼくがこれまで新品に取り替えてしまったぼくの体の部分を見せられている。完璧ということに憧れて新品に替えたはいいが、その扱いにかえってまごつき、もとからの体をずうっと使いこなしているルソーがうらやましくなるのだ。』

 

この赤瀬川さんの文章に共感をおぼえながら、ルソーの絵を1枚1枚見ていくうちに、ルソーの世界にどんどん引き込まれていきます。パリの風景、肖像、密林世界。50枚余りの絵を見て、最後にふーっとため息。このルソーという人、40歳で絵を描き始めて、66歳で亡くなるまで27年間、赤瀬川さんの言う通り、本当に自分の好きなように好きな絵を描いた人です。ルソーは批評家の言葉を気にせず無審査のアンデパンダン展に出展し続けました。赤瀬川さんのガイダンスの力もあり、この本を読むと十分すぎるぐらいルソーの絵にのめり込めます。

 

ルソーの絵を見ていて感じるのは、「アマチュア力」です。描写技術の修練を積んだプロの上手な絵とははっきり異なる独特の描写と個性的な美意識。19世紀末から20世紀初めにかけて「自分流」で描き続けるアマチュア画家の大きな可能性を示してくれ、21世紀の現代でも世界中のアマチュア画家を勇気づけてくれるのが、このルソーだと思います。