わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

こんな本読んだことありますか? 「印象派の水辺」(赤瀬川原平著、「赤瀬川原平の名画探検シリーズ」、講談社)

2020年11月17日

 

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思えばこの本には随分お世話になりました。これまで「美術書を読みたい」と思った時に何度開いてみたことか。モネ、シスレーピサロルノワール、マネ。中でも、モネとシスレーの絵が多いです。この本のお蔭で、モネとシスレーの絵を何度も模写することになり、そのために、この二人が描くセーヌ川の水辺の絵にのめり込みました。もちろん赤瀬川さんの解説にも。

 

私は絵の解説の中で、赤瀬川原平さんの解説が一番好きです。肩のこらない、ゆったりとした気分になれる解説。それでいて作品を語る話のポイントはきちんと押さえられていて、示唆に富んでいます。この人が亡くなったことを、返す返すも残念に思います(2014年に77歳で没)。生前はテレビでも時々拝見していました。著書もいくつか読みました。それらのどの本にも共感を覚えます。いつか、このブログで「赤瀬川原平特集」を組んで紹介したいぐらいです。

 

本書の表紙カバーを外すと、表紙はモネの「ベヌクールの岸辺」です。この絵の解説が本文で真っ先に出てきます。

 

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「気持ちのいい川辺の臨場感

 本日は晴天なり。目の前に鏡のような水面がある。青空の照り返しを体全体に感じる。その臨場感が、ほとんどそのままキャンパス上に出現している。水面にポンと小石を放り込みたくなってくる。

 澄み切った空気を皮膚に感じるみたいだ。どうしてここまであらわせるのだろう。近づいて川面の絵具だけを見れば、けっこう粗く乾いた塗りで、水の感触なんてぜんぜん感じられない。それがしかし、画面となってこの河岸の空気の温度まで感じさせるという事態は、尋常ではない。手前の婦人がぼーっと放心したように、この風景の一部になって溶け込んでいる。絵を見るぼくらもこの婦人と同じように、ただただこの空気の感触にひたる。

 見たものの再現が、どうしてこんなに気持ちいいのか。絵筆での描写ということに潜む不思議が、あと少しで解明されそうな気持ちになってくる。」

 

赤瀬川さんの専門家としてのコメントは、どれも「なるほど」と思わせてくれます。画家であり、芥川賞作家でもあった赤瀬川さんの文章は、さすがにうまい。私が特に気に入った解説の一つが本文後半の「絵の中のH2Oを探す」という文章です。

 

印象派の絵は水分にあふれている。絵の中に水面がたくさん見えるのだ。池があり、河があり、海が見える。水は蒸発して気化すると雲になり、上空を漂いながら太陽の光の様子を様々に変える。つまり天候が変わるわけで、印象派の画家はそれに敏感である。風景を照らし出すのは太陽の光で、それを制御するのが雲。印象派の画家たちはその関係を的確にとらえようと努力している。

(中略)

 地面に染みた雨は樹木に吸い上げられて、印象派の風景画にはじつに生き生きと緑の葉っぱが繁茂している。あれも画家たちに描かれた水分だ。

 さらにいうと、印象派の絵の中の人物。あの肌の輝きは、水分が体内で熱を帯びた様子を描いているんじゃないか。

 まあそこまではいわないにしても、とにかく印象派の絵の中には必ずH2Oがふんだんに描かれている。印象派の画家たちが日常の風景の輝きを夢中になって描いた結果は、その絵がふんだんに水分を含んでみずみすしいのだ。」

 

やはり、印象派の絵の素晴らしさは、現場で絵を描いていることから来るのです。写真をもとに風景を描く人も実際たくさんいますが、室内で仕上げた絵だと、現場の空気感や水気まで伝えるのは難しくなるでしょう。

 

最後に、巻末に「印象派年譜」が出ていました。これを見ると、

「1840年11月 モネ、パリに生まれる。この年ピサロ10歳、マネ8歳、シスレー1歳。ルノワールは翌年2月に生まれる。」

とあります。日本の明治維新が1868年ですから、印象派の人たちは江戸時代末期に活躍を始めたことがわかります。印象派はあまりに日本人に馴染み深いので、つい最近、例えば大正か昭和初期に活躍した人たちのように思ってしまいますが、もう200年近く前の人達なんですね。日本では浮世絵の時代です。

 

200年前の絵画の革命的な出来事を、今でも私達はその絵を見ることで追いかけ、インスピレーションをもらっています。戸外で光と水と緑を描くことの喜びは、絵を描く人の中で尽きることはないでしょう。