わたしの水彩スケッチと読書の旅

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こんな本読んだことありますか? 『海を撃つ』(安東量子著、みすず書房)

2021年3月17日

 

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この本を読むきっかけは、著者の安東量子さんが出演したNHK Eテレ(日曜日朝5時)を見たことでした。安東さんは、福島の原発事故を体験し、事故に振り回されたその後の福島の人々の暮らしを記録に残そうと、本業の植木屋の仕事のかたわら執筆活動をしている作家です。1976年広島県生まれ、2002年から福島県在住。原発事故後、生活の場の放射線量を測定し続け、原発事故を考える地元住民の活発な活動をリードしてきました。

 

第1章「あの日」では、福島第一原発の事故でに避難の体験が描かれています(以下、一部引用)

「2011年3月15日午前6時過ぎ、東京電力福島第一原子力発電所は、1号機、3号機に続いて4号機が水素爆発を起こした。その報道を受け、原発から直線距離にして約60キロメートルの距離に住む私達も避難を決めた。遠方の親戚や知人から立て続けにかかる避難を促す電話に、『逃げると言ったって、行くところがある人はいいけれど、うちはどこに行けばいいんだ』と困惑顔で呟く隣人を気にかけながらも、夫と私は車に荷物を載せ、水戸に住む親戚宅へ向かった。

 何を持っていけばいいかなんてわからない。自宅にあったありったけの食料と着替え。貴重品そして毛布。飼っていた犬をつないでいたロープから放し、餌をあるだけ与えた。猫にも同じように水と餌を用意する。表の道路に出て車のサイドミラーをふと見ると、犬が車の後ろをついてくる。彼はなにが起きているかを知らない。もしかするともう帰って来ることができないかもしれない。ふとそんな思いがよぎり、ごめんねごめんねと誤りながら、振り切るように車を走らせた。」

 

3月15日から各地の放射線量が報じられ始め、自宅のある地域の放射線量の情報を見て、3月21日には親戚宅から自宅に戻ります。その後は、混乱と不安の中で、公表される測定データや情報だけが頼りの生活でした。

 

やがて、著者は国際放射線防護委員会(ICRP)という組織の存在を知り、また地元で開催される専門家の講演会に参加するようになります。そして住民の間で放射線の勉強会を立ち上げます。講師として招いた専門家と住民とのやりとりを続ける中で、次第に自分の活動の方向が定まってきます。ソ連チェルノブイリ原発事故の体験を学び、そこから福島原発事故で苦しむ住民をサポートする知恵をもらう。そして、チェルノブイリ事故の影響を受けたノルウエーとベラルーシの現地へも行きます。

 

その後は福島の地元で、日々身の回りや野菜などの農作物の放射線量の測定を続けながら、その活動を記録していきます。

 

そして本書の終章に近い第8章「ふたたび、末続(すえつぎ)」の中の文章です(以下引用)。

「私がしたのは、彼ら(住民)が知っていたことを、ひとつひとつ目の前で測って、目に見える形で示すことだけだったのかもしれない。混乱をもたらしたものの正体を知るために。どこまでが放射能のせいなのか、どこからは放射能のせいではないのかを知るために。どこからが上乗せされたリスクなのか、どこまでがそうではないのかを知るために。

 今も細々と測定は続けている。2012年からずっと測り続けている女性が、はにかむように笑いながら言う。まだ測ってるの?もういいんじゃない?って言われるの。そう測ってるのよ。わかってる、わかってるけどいいの。まだ測るの。これが好きなの。趣味なのって答えてるの。胸ポケットに入れてある小型の個人線量計を軽く手のひらで叩きながら、彼女は答える。こと細やかに彼女は確認してきた。畑で新しい種類の野菜を育てるたびに、事故後に栽培してこなかった畑を初めて使うたびに、測定に持ってきた。もうかつての表情の固さはない。わかってるんだけれど、念のためにね、と毎回言い訳のように付け加える。でも、結果を確認する目は真剣だ。」

 

自分たちが納得いく形で、自分の身の回りの放射線量の測定を続ける。これがやはり原発事故の影響をうける地域の人たちの積極的な生き方を示しています。専門家に任せないで、住民自身が自分の命を守る行動をする、そのために、科学の勉強もし、実際にデータも取る。その活動の記録(本書)は、著者の強い意思と行動力に裏打ちされていて、リアリティをもって読者に訴えかけてきます。