わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

この本もう読みましたか?  『異邦人』(アルベール・カミュ著、窪田啓作訳、新潮文庫)

2020年7月27日

 

f:id:yaswatercolor:20200727183145j:plain

 

 

カミュの『ペスト』に引き続いて『異邦人』を読みました。カミュは1942年に処女作『異邦人』を、そして1947年に『ペスト』を刊行しています。『異邦人』は発表後すぐに評判となり、1940年以降フランス文壇の最大傑作と当時絶賛されたようです。そして次の『ペスト』はさらに評判を呼んで世界中で一大ベストセラーになりました。

 

『異邦人』のページをめくっての最初の感想は、『ペスト』より格段に読みやすいことです。始めから抵抗なく流れるように読み進められる。翻訳者が違うとこんなにも文章の印象がちがうのか、と驚きです。外国作品の翻訳というのは、当然のことながら、その作品の価値を左右する実に重要な作業です。

 

「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。」これがこの作品の冒頭部分です。カミュのファンなら誰でも知っている有名な書き出し。主人公の青年ムルソーの年老いた母親が養老院で亡くなり、二時間ほどバスに乗って、その養老院に出かける場面から物語が始まります。母親の通夜と埋葬。その時に見せる普通と思われる青年の普通の行動。回りの人々の言葉や振る舞いも普通そのものです。母親の葬儀から帰宅後すぐの週末、電車に乗って港の海水浴場へでかけてガール・フレンドに会う。この海の場面やあとで出てくる海の描写がとてもいい。水の中で聞こえる波の音やキラキラ輝く太陽光線の強さが伝わってきます。そして、その後ガール・フレンドと一緒に映画を見る。その夜、彼女と部屋で一緒に過ごす。いろいろな人がいるから、中にはこんな青年もいるだろう、という思いで読み進みました。北アフリカアルジェリアの輝く太陽と、地中海の青い海を背景に、ここで描かれる青年の生活と町の人々の描写がむしろ地中海地方の人々の生活の典型的な姿のような気がしました。

 

しかし、この母親の葬儀とその直後のムルソーの行動が、その後ムルソーに降りかかる不条理に深くつながることになります。たまたま友人関係のささいな喧嘩で人を殺してしまうムルソー。そして逮捕。刑務所生活。裁判。やがて下される厳しい死刑判決。ムルソーに降りかかる不条理。裁判では弁護士などの助言に耳を貸さず、かたくなに自分を貫くムルソー。だんだん、この青年が格好良くさえ見たりするのですが、とにかく、裁判の過程でムルソーがこの世の不条理をどう感じ、どう対応するのか、それが本文の中盤と後半で描かれます。

 

この文章を読みながら、私は子供の頃、親と一緒に見た「私は貝になりたい」という映画を思い出しました。太平洋戦争が終わり、連合軍の法廷で、戦犯としてまさかの絞首刑を宣告される市民をフランキー堺が演じていました。

 

読み終わって思ったのは、カミュが描きたかったのは『ペスト』でもこの『異邦人』でも不条理と戦う人間なのだ、ということです。『ペスト』では自然が人類に与えた疫病という不条理、『異邦人』では社会が個人に与える不条理。 これをどう避けるか、これにどう耐えるか。問題は突然湧き出てきて、その答えは無いのです。この二つの作品を読んで、どちらか一つの作品を読んだだけでは分からなかった作者の主張が、少し分かったような気がしました。

 

現在流行中の新型コロナウイルスも人類にとっての不条理。世界各地でこれまで起きた、そして現在も起きている戦争も不条理。地震津波、台風や豪雨などの異常気象も不条理。個人にとっては、解雇や就職難、親しい人の死、自分の病気もすべて不条理です。人間は、絶えずこれらの不条理に立ち向かわなければならない。エンドレスの戦い、きりが無い戦いです。カミュは不条理への戦いがたとえ失敗に終わったとしても、何かを自分で考え、自分で何かをやることが希望につながると、むしろ明るい気持ちで言いたかったのだと思います。

そんなカミュ自身も1960年に46歳の若さで交通事故死。不条理な死は皮肉です。