わたしの水彩スケッチと読書の旅

どこまでも、のんびり思索の旅です

朗読『太宰治作品集』の中の『走れメロス』 (1)〜(3) を聞いてみました

2021年7月11日

 

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クロアゲハが飛んできました

 

 

NHKラジオの朗読で『走れメロス』を聞きました。この作品は中学校の国語の教科書に載っていました。

 

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった」

 

これは青空文庫の原作から引用した冒頭部分です。

 

あの時は、皆で教室で朗読し、先生の解説を聞きながら、人を信じることの大切さや友情についてクラスで考えました。多分クラス全員で感想文も書いたと思います。中学では仲のいい友達がかなり沢山いたので、このメロスとその友人セリヌンティウスような関係は理想的で素晴らしいと受け止めて、そんな関係が友達との間にもできるといいなあと素直に思ったと思います。作者の太宰治がどんな作家なのかの解説は、先生からは特にありませんでした。

 

それから青年期になって、太宰の他のいくつかの作品を知って、この『走れメロス』も彼の作品だと知りました。しかし、それからこの歳になるまで読み返すことはありませんでした。今回、青空文庫で原作を読み、またNHKの朗読を聞いて、改めてこの作品を味わいました。まず分かったことは、中学校で習った『走れメロス』は、原作のところどころを省いたり書き換えたりして教科書用に、また中学生向きに短くまとめたものだった、ということです。原作を読むと、ストーリーの流れがさらによく分かりました。そして太宰という作家の雰囲気や個性も感じられました。

 

今回読んで「あっ」と思ったのは作品の特に最後の部分でした。

 

「『セリヌンティウス。』メロスは眼に涙を浮べて言った。『私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。』

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯(うなず)き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑(ほほえ)み、

 『メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。』

 メロスは腕に唸(うな)りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。

 『ありがとう、友よ。』二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。

 『おまえらの望みは叶(かな)ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。真実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。』

 どっと群衆の間に、歓声が起こった。

 『万歳、王様万歳。』

 ひとりの少女が、緋(ひ)のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

 『メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。』

 勇者は、ひどく赤面した。」

 

最後の数行は中学校教科書には無かったと思います。もしそのまま教科書に出ていたら、中学生の心にさらに強烈な印象を与えたでしょう。最後のこの「締め」が、太宰のうまさだと思います。

 

ついでにネットでこの作品についての読者の反応を見てみました。熱心な中学生は、教科書と単行本の作品とで長さ(ページ数)が違うことに気がついて、原作を自分で読んでいます。こんな積極的な中学生は本当に尊敬します!私など、中学の教科書を読んで、もう『走れメロス』は読んでしまったと思って、読み返すことをしませんでした。ストーリーがわかりやすいので、それで滿足したのです。

 

中学や高校の国語の時間に習った作品で、記憶に残ったものを、何年も何十年もたったあとでもう一度ゆっくり読み直すというのも、大事なことかもしれません。中学校時代に理想に思ったあの「友情」が、その後の人生で果たしてあったのかなど、理想と現実とのギャップを考えてみるのもいいでしょう。