この本もう読みましたか? 『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』(谷崎潤一郎著、中公文庫)
2020年6月8日
時間があると、ぼーっと本棚の前に座って本棚を隅から隅まで眺める。部屋の本棚にじっと並んでいる単行本、文庫本、大型本の背表紙が、時々自分に語りかけてくるような気がする。それで、そっと本を取り出して、ページをめくる。
これが私の読書開始のパターンです。何度も読んだ本も、途中でやめた本も、買っただけでまだ読んでいない本も、雑然と本棚に並んでいます。図書館にも行きますが、私はどちらかと言うと自分で本を持っておきたい派です。気に入った本は5回でも10回でも読みます。本が書き込みで汚れてまた同じ新しい本を買うこともあります。
いつだったか、藤沢周平の小説が大好きな女性がテレビに出ていました。彼女は同じ作品を読み直すのに一度読んだ文庫本は読みたくなくて、また新品の文庫本を買うのだそうです。新しい本の印刷の匂いがたまらないとかで、彼女の本棚には同じ藤沢周平の本が読んだ回数分だけ、5冊も6冊も、多い時には10冊も並ぶのだそうです。私はそれほどではないですが、やはり新しい本のプーンと臭う印刷の匂いは好きです。
本も買って放っておくと、さすがに本棚にたまってきますので、一度読んでみていらないと決めた本は処分します。月1回の廃品回収の試練に耐えた本が、本棚に残って、何かしらオーラを放ちます。本棚のスペースは限られているので、自分の気に入った本や、読み始めてはみたものの歯が立たなくてもう一度挑戦したい本などが残ります。
そんな本の1冊。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。高校の現代国語の教科書に載っていて記憶している人も多いでしょう。日本の文化論です。例えば、日本の古い家屋の室内の暗さや陰の部分が日本の美を演出するというような、谷崎の感性が語られた有名な本です。谷崎はかつてノーベル文学賞候補になっただけあって、文章のうまさはさすが。句点(。)で短く区切る文章ではなく、読点(、)でつなぐ文章。何とも言えない独特のリズムがあります。何度か読み返してみて共感を覚えるのは次のような文章です。
「私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠(かわや)へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ(むしろ)生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻り(うなり)さえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそう云う厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端(のきは)や木の葉からしたたり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつつ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。」
また続けて、次の羊羹(ようかん)の話もいいです。
「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさをふくんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」
明治に生まれ、大正、昭和と活躍した作家の味わい深い文章を静かに読むのもなかなかいいものです。文豪と呼ばれる谷崎の文章には、随所にユーモアのセンスも光っていて、並のユーモア小説より面白いと思わせるところもあります。この文庫本に収録されている「恋愛及び色情」、「旅のいろいろ」、「厠のいろいろ」などには、ちょっと昔の日本の生活のユーモラスな一面や、現代には多分通用しない作家の女性観などが書かれていて、興味深い内容です。時代はどんどん変化します。かつて「明治は遠くなりにけり」と言われた時代がありました。今や明治生まれの人は存在しなくなって、「大正は遠くなりにけり」の時代。そしてもうすぐ「昭和は遠くなりにけり」とまで言われそうです。谷崎の作品を読むと、この変化の中で日本人が本当は失いたくなかったものを、もう一度確かめるよい機会になるかもしれません。