わたしの水彩スケッチと読書の旅

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こんな本読んだことありますか? 「ノラや」(内田百閒、中公文庫)

2017年1月18日
 
我が家には6歳のオスの猫がいます。2年前に兵庫県宝塚から我が家に移ってきました。すぐに新しい環境に慣れて、いま家族からとても可愛がられています。
今日は、猫の文学として夏目漱石の「吾輩は猫である」と並んで有名な内田百閒(ひゃっけん)の「ノラや」を読みました。内田百閒は明治22年(1889年)岡山市生まれ。旧制六高、東京帝大独文科卒。小説「阿房列車」やユーモア溢れる多数の随筆で有名です。



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さて、時は昭和30年-31年。百閒さんは自宅の庭に迷い込んだオスの子猫を「ノラ」と名付け、夫婦ともどもとても大事に可愛がります。
 
「うちの庭に野良猫がいて段段おなかが大きくなると思ったら、どこかで子供を生んだらしい。何匹いたか知らないが、その中の一匹がいつも親猫にくっついて歩き、お勝手の物置の屋根で親子向かい合ったまま居眠りをしていたり、あくびをしたり、何となく私どもの目に馴染みが出来た。
 まだ乳離れしたかしないか位の子供が、夜は母親とどこに寝ているのか知らないけれど、昼間になると出て来て、毎日同じ場所で、何だか面白くてたまらないように遊び回る。親猫にじゃれついてうるさがられ、親猫はくるりと後ろ向きになって居眠りをはじめているのに、まだ止めない。そのうちに、相手になって貰えないから、つまらなくなったのだと思う。物干しの棒を伝ってお勝手の庭へ降りて来て、家内が水をくんでいるひしゃくの柄にからみついた。手許がうるさくて仕様がないから家内がひしゃくを振って追っ払おうとしたら、子猫の方では自分に構ってくれるものと勘違いしたらしく、ひしゃくの運動に合わして、はずみをつけてぴょいぴょいとすっとんだ向こうの、葉蘭の影の金魚のいる水がめの中へ、自分の勢いで飛び込んでしまった。うるさいから追っ払ったけれど、水がめにおっこちては可哀想である。すぐにふちからはい上がって来たそうだが、猫は濡れるのはきらいだから、御見舞に御飯でもやれと私が言った。」
 
しかし、1年半ほどたった昭和32年の3月にノラは突然内田家から失そうしてしまいます。
 
「三月二十八日木曜日 半晴半曇夕ストーブをつける。夕方から雨となり夜は大雨。ノラが昨日の午過ぎから帰らない。一晩戻らなかった事はあるが、翌朝は帰ってきた。今日は午後になっても帰らない。ノラの事が非常に気に掛かり、もう帰らぬのではないかと思って、可哀想で一日中涙止まらず。やりかけた仕事の事も気に掛かるが、丸で手につかない。(後略)」
 
百閒さんの悲しみは、読んでいて思わず失笑してしまうぐらい深刻です。
 
「毎日私が泣いて淋しがるので、家内がだれか代わる代わる来て貰って一緒に御飯を食べることにしてはどうかと言う」
 
「今日もむなしく待って又夕方になり薄暗くなった。気を変えようと思っても涙が流れて止まらない。二十八日以来あまり泣いたので洟(はなみず)を拭いた鼻の先が白くなって皮がはげた」
 
その後、百閒さんは町内にビラを配ったり新聞広告を出すなどしてこの「ノラ」を必死で探し回るのですが、結局見つからないまま時間が過ぎていきます。
 
「ノラは猫捕りにとられたのだろうという人もある。しかし猫捕りの事を言う人には、そう考えるのが楽しいらしい点もある。ノラは猫捕りに連れて行かれて、皮を剥がれて、三味線に張られて、今頃は美人の膝に乗っているだろうと言う。人の家の猫がいなくなったと言うと、すぐにそういう事を瞑想する人のご先祖は何をしていられたのかと疑わしくもなる。」
 
このあたり、内田百閒のユーモアについ笑ってしまいます。
 
そのうち、ノラを失った百閒の悲しみを癒やすように、クルツというオスの子猫が内田家に来るようになります。はじめはクルツのことを品がない、みっともないと邪険にしていた百閒も、次第にクルツが気に入ります。
 
そして内田家に飼われて5年余り。すっかり気持ちが通じたクルツが病気で弱って来ます。獣医さんに何度も往診を頼み、手当をしますが、クルツは次第に食欲がなくなり体が痩せ細ってきます。
 
ノラの失そうのところでは、何となく百閒さんの動転ぶりに呆れて失笑していた私も、このあたりから読んでいて涙が止まらなくなりました。
 
「クルをなでている家内が、しゃっくりをすると言ったので、すぐに跳ね起き付き添ってやる。臨終なり。余り苦しみはなく、家内と二人でクルに頭をくっつけ、女中が背中をなでてやる内に息が止まった。午後四時五分。三人の号泣の中にクルは死んだ。ああ、どうしよう、どうしよう、この子を死なせて。取り乱しそうになるのを、やっと我慢した。しかしクルや、八月九日以来十一日間、夜の目を寝ずにお前を手離すまいとしたが、クルやお前は死んだのか。」
 
この本はノラの失そうの悲しみから始まって、クルツとの生活と別れの悲しみまでぐっと話が盛り上がっていきます。いづれにしても、内田百閒の名文とともに、生き物への愛着、命あるものへの愛がますます強くなる本です。