わたしの水彩スケッチと読書の旅

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こんな本読んだことありますか? 「猫の本 藤田嗣治画文集」 (講談社)

2017年7月18日

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藤田嗣治(ふじたつぐはる)。パリで活躍し、乳白色の絵肌と日本画の面相筆で描いた美しい線描の裸婦像で世界的によく知られた油絵画家です。一方、裸婦と同様、猫の絵もとても有名で、こちらも面相筆と墨で、細い洗練された線で沢山の作品が描かれています。明治以降、パリに留学した日本人画家の多くは当時のフランスの画家たちの絵に圧倒され、その画風を学ぶことに全精力を使うわけですが(したがってフランスの絵をそのままマネしたような絵も沢山あります)、藤田の場合は、日本画の伝統や浮世絵版画の伝統をパリに持ち込んで、いわばパリ画壇に挑戦した非常に稀有な日本人画家だったと言えます。

 
まずは藤田の略歴から始めます。藤田嗣治は1886年(明治19年)東京生まれ。東京美術学校卒業後、1913年(大正2年)27歳でフランスのパリへ留学。ピカソ、ルソー、モジリアーニ、スーチンなど、その後の近代西洋画を代表する画家達と出会いました。しかし、1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発し、日本からの送金が途絶えて困窮生活を余儀なくされました。1917年(大正6年)31歳でフェルナンド・バレーと結婚。そして同じ年に最初の個展開催。1919年(大正8年)にサロン・ドートンヌに6点を初出品し全点入選。すぐに会員に推挙され、2年後には審査員。この頃から藤田の華々しい活躍が始まります。1924年(大正13年)38歳の時に離婚。別の女性(藤田がよく絵に描いたモデルのリュシー・バドゥ、愛称ユキ)と生活。また、この年、パリで最初の画集を刊行。翌年、フランスからレジョン・ドヌール勲章を受賞。その後、1929年(昭和4年)に43歳で17年ぶりに日本帰国。翌1930年(昭和5年)、アメリカからパリへ。その後、1933年(昭和8年)47歳で再び日本帰国。1936年50歳で堀内君代と結婚。1937年(昭和12年)日中戦争勃発。1939年(昭和14年)第二次世界大戦勃発。藤田は当時パリにいましたが、ナチスドイツの侵攻で陥落寸前のパリを離れて1940年(昭和15年)帰国。1941年(昭和16年)太平洋戦争突入。藤田は戦争記録画を描くために東南アジアの戦地に派遣され、それらの戦争作品を国内で発表。1945年(昭和20年)終戦。戦争協力者として戦犯容疑をかけられますが、裁判を無事回避。1949年ニューヨークへ。1955年(昭和30年)フランス国籍取得。1968年(昭和43年)死去。享年81歳。
 
こうしてみると、藤田の人生は実に激動の人生です。



さて、藤田と猫との出会いは、この本の3ページの短い文章「巴里の昼と夜」(1948年)の中に書かれています。
 
『盛り場から夜遅くパリの石だたみを歩いての帰りみち、フト足にからみつく猫があって、不憫(ふびん)に思って家に連れて来て飼ったのが一匹から二匹、二匹から三匹になり、それをモデルの来ぬ暇々に眺め廻し描き始めたのがそもそものようです。ひどくおとなしやかな一面、あべこべにたけだけしいところがあり、二通りの性格に描けるので面白いと思いました。
 始終画室のなかに入れて置いたので、時には自画像の側に描いてみたり、あるいは裸体画の横にサインみたいにこの猫を描いたりしたことで、だんだん有名になったのでしょうね。殊に、ある夜―それも夜半のことでしたが、部屋で何かして居ると急に猫が私の肩に飛び上がったものです。これを描いたら面白いなと、即座にこの肩に乗っている猫を夜中かかって画布に描きましたが、奇抜な構図が偶然にも評判になったことはご承知の通りです。』



藤田嗣治の猫の絵、どれもとてもかわいくて、とても上手いです。私は自分の水彩画の線は筆ペンで書いているので、日本画の筆の良さはわかります。そのうち、面相筆、削用筆、隈取筆、彩色筆など、水彩画の線引きと彩色の両方で日本画の筆をうまく使い分けられるようになりたいものです。
 
藤田嗣治の著作には、自伝的随筆などがいくつかありますし(講談社から復刊)、藤田の絵の作品集や解説も多数あります。これらを読んでみても、藤田嗣治はやはり天才的な画家であるとわかります。